色の結晶片が見せる、うねり立つダイナミズム…「 Tetsuo Fujimoto Exhibition MACHINE DRAWING 藤本 哲夫 展 」
Category : 現代美術シッタカぶり
10月19日→10月31日【GALLERY SUZUKI】
帰りがけに一冊の作品集をいただく。
滋賀県内で芸術文化で活躍されたアーティストに贈られる秀明文化賞受賞記念に
作られたもので、奥付を見ると編集は故 田積司朗さんであった。
初個展から32年。
ファイバーアート(ワーク)の作家としての
数々の受賞歴・国内外のパブリックコレクション、
そして膨大な公募展への出品を見て
そのエネルギッシュな探究力と尽きない意欲を垣間みる思いがした。



明らかに1994年制作の作品から変化を見せる。
それまでの二重織の手法に
幾何学的なモチーフを組み入れたものとは一線を画した、
ミシンによる線の重層、交錯、拡張という
絵具を塗り重ねた表情を持つものへの変化。
これが藤本さんの言う「マシン・ドローイング」である。


藤本さんは言う。
「ミシンは誰でも使える道具。絵筆も同じ。だから一枚の絵を完成させるつもりで描く」
藤本さんが使うのは工業用ミシン。
この“カンバス”に縫い重ねられた絵具たちの数が増えるほどに
生地はたわみ、ゆがむ。
独特のドレープができる。
当初この異様なドレープが気になり、悩む。
しかしこれは塗り(縫い)重ねたことによる必然であって
そのことがより表情を豊かにしていく結果となる。
確かに作品を見ていると、布は生きているという実感がある。
抗えないものにこそ、摂理があり、道理がある。
そこに美しさが生まれ、それはそのまま作風に繋がる。
こうして《マシン・ドローイング》は色彩の片鱗の集積による
ストーリーを奏で始める。


ともすると染め方や織り方などの“方法そのものに立脚点を見いだす”という
作品が多い中で、はっきりと
「誰にでもできる技術」と言い切るのは勇気が要るはずである。
しかしそれほどに一枚の布(絵)としての認識の強さが
こうした心を動かす、あるいは心に波動を起こさせる作品を作らせるのだろう。
藤本さんが巻頭文で言うように
目を通して認識できるものは、実は限定されており、表層的である。
見る目の移動によって、対象もまた違って見えることは
ミクロとマクロを自由に行ったり来たりできる世界を構築していることであり、
それはとりもなおさず作家自身が
ミシンを掛けながら布を壁に掛け、また縫い、また掛け、また縫い…という
未定型の完成像に向かって根気よく、我慢を強いられることと通じる。
タブローのように壁にかけて、考えながら塗り足し、
また引いて見ながら色を入れるという至極当然の作業ができないこと、
“筆を止める”頃合いの難しさ…。
“特化した方法”に持っていかれない力強さというものは
四の五のない発散を放つ。
色の結晶片が織りなす壮大な物語はこれからも長く紡がれるであろう。

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帰りがけに一冊の作品集をいただく。
滋賀県内で芸術文化で活躍されたアーティストに贈られる秀明文化賞受賞記念に
作られたもので、奥付を見ると編集は故 田積司朗さんであった。
初個展から32年。
ファイバーアート(ワーク)の作家としての
数々の受賞歴・国内外のパブリックコレクション、
そして膨大な公募展への出品を見て
そのエネルギッシュな探究力と尽きない意欲を垣間みる思いがした。




明らかに1994年制作の作品から変化を見せる。
それまでの二重織の手法に
幾何学的なモチーフを組み入れたものとは一線を画した、
ミシンによる線の重層、交錯、拡張という
絵具を塗り重ねた表情を持つものへの変化。
これが藤本さんの言う「マシン・ドローイング」である。


藤本さんは言う。
「ミシンは誰でも使える道具。絵筆も同じ。だから一枚の絵を完成させるつもりで描く」
藤本さんが使うのは工業用ミシン。
この“カンバス”に縫い重ねられた絵具たちの数が増えるほどに
生地はたわみ、ゆがむ。
独特のドレープができる。
当初この異様なドレープが気になり、悩む。
しかしこれは塗り(縫い)重ねたことによる必然であって
そのことがより表情を豊かにしていく結果となる。
確かに作品を見ていると、布は生きているという実感がある。
抗えないものにこそ、摂理があり、道理がある。
そこに美しさが生まれ、それはそのまま作風に繋がる。
こうして《マシン・ドローイング》は色彩の片鱗の集積による
ストーリーを奏で始める。


ともすると染め方や織り方などの“方法そのものに立脚点を見いだす”という
作品が多い中で、はっきりと
「誰にでもできる技術」と言い切るのは勇気が要るはずである。
しかしそれほどに一枚の布(絵)としての認識の強さが
こうした心を動かす、あるいは心に波動を起こさせる作品を作らせるのだろう。
藤本さんが巻頭文で言うように
目を通して認識できるものは、実は限定されており、表層的である。
見る目の移動によって、対象もまた違って見えることは
ミクロとマクロを自由に行ったり来たりできる世界を構築していることであり、
それはとりもなおさず作家自身が
ミシンを掛けながら布を壁に掛け、また縫い、また掛け、また縫い…という
未定型の完成像に向かって根気よく、我慢を強いられることと通じる。
タブローのように壁にかけて、考えながら塗り足し、
また引いて見ながら色を入れるという至極当然の作業ができないこと、
“筆を止める”頃合いの難しさ…。
“特化した方法”に持っていかれない力強さというものは
四の五のない発散を放つ。
色の結晶片が織りなす壮大な物語はこれからも長く紡がれるであろう。

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