涙腺の共感を琥珀に閉じ込める…「 sweet memory おとぎ話の王子でも 」展 - 林 智子
Category : 現代美術シッタカぶり
7月20日→9月11日【京都芸術センター ギャラリー北】


↑右側の35本の容器は作家さんの涙のダイアリー。
第2回目は林 智子さんの作品。
林さんの作品に欠かせないのは「涙」。
「tear mirror-jewel」という作品群は
林さん自信の呼びかけに応じて、
一般の方々が「落とした涙」にまつわるエピソードと共に
その「涙」そのものを小さな瓶に詰めて作家に送り、
作家がそこからインスパイアされた宝石を
寒天、砂糖、水飴で作ったものが
それぞれに展示されているというもの。




さぁ、これはセンチメンタルか、メランコリックかという論議は
ここでは届かない。
要は“涙の理由(わけ)”と、詰めた涙だけで
現代美術という「わけわからん!」と思われたり、
何でもありじゃん!的な免罪符を知らずうちに手に入れている分野では
作品として成立はするだろう。
しかし、作家はモノを作らねばならない。
そこに気を立ち上らせなくてはいけない。
故に“宝石モドキ”を作るのだ。
これは、提供された涙への
作家の恩返しなのであると僕は「勝手解釈」をする。
(それにても最近このフレーズが多くなったような気もする…)
作家は多分、私小説に出会った時のような
同情やとまどいをもって
それらのエピソードを読んだであろう(と推測する)
正直に言えば、他人の“ささやかな”不幸や“ちっちゃい”感動は
(ここでいう不幸や感動は解像度を大きくしたもの、あるいは倍率を上げたもの)というのは
ごく自然にそそられるものだ。
その結果の涙という“儚い成分でできた”一粒の真珠はとても魅力的だ。
林さんのプロフィールにある「人と人との距離感」というのは
言葉にならないほどの、いや言葉にできないほどの些少な
感情に揺り動かされて、ほろりと落ちる涙、
その涙を流したという事実が
本人が封印したいことであれ、なかれ、
第3者の心をそよっと動かすものであるということだ。
と、同時にあくびをしても涙はこぼれる。
ただ、救いはテレビでさえ、画面の中で切なく泣いている人を見た時、
訳も無くもらい泣きしてしまうほどに
僕たちは情緒的なことだ。
4つある作品のひとつにこんな一文が添えられている。
5/3 15:52 息子誕生
正真正銘、生後6時間目の涙です。
小さな目から数滴の涙が落ちました。
新生児は涙は出ないと言われているので、
“流れる”という表現とは違う“にじむ”ような涙。
泣いている顔も最高。親バカ心の真骨頂の心境。
私のまわりの方すべてに息子を紹介したい気持ちです。
とてもシンプルだけど
誰にでも伝わる強い共感度を持っていると思う。
そして思わず頬も緩む。
誕生の瞬間に立ち会えたかのような共感。
えー、もう一つ…
私はよく涙を流す。たいてい数週間毎日の様に泣く事もある。しかしこの涙を採取する小瓶を前にすると一滴も涙が出ない。最近は愛について考えると涙が溢れ出る。愛、承知されたが報われなかった愛、終ってしまった愛、一度あきらめたのに再度私を呼び止める愛、驚きである。年齢の不一致、性格の不一致、地理的不一致。いつになれば適合する相手は見つかるのだろう。今はミスマッチな愛でも有り難く思う。
涙や、泣くこと自体が精神病的、幼稚、情緒不安定と訓戒される事が多くあるが、私は泣く事は贈り物であり才能であると思う。それは複雑な感情を処理する能力を喚起させるし、心との静寂な交感でもある。私は涙を自制したり、泣く事すら忘れてしまった方々誰でも、誰とでも、この涙を共有したいと願う。
いいです、いいです。これです。(なんだか文体が変わってきているような)
生きているからこそ、涙も流せる、と考えたら少しは救われませんか。
涙の数だけ人生が…なんて歌の文句でもあるまいが
その結晶化された琥珀を見ていると
本物の宝石もその由来は実は涙なのではないか、
そんな気もする。



↑作家さんは遠距離恋愛をされていたようで、
さしずめこれは恋人の“指拓と鼻拓と乳拓と耳拓”。
女性ならわかるんだろうなぁ…
※尚,アップされている画像は主催者の許可を得て撮影されたものです。


↑右側の35本の容器は作家さんの涙のダイアリー。
第2回目は林 智子さんの作品。
林さんの作品に欠かせないのは「涙」。
「tear mirror-jewel」という作品群は
林さん自信の呼びかけに応じて、
一般の方々が「落とした涙」にまつわるエピソードと共に
その「涙」そのものを小さな瓶に詰めて作家に送り、
作家がそこからインスパイアされた宝石を
寒天、砂糖、水飴で作ったものが
それぞれに展示されているというもの。




さぁ、これはセンチメンタルか、メランコリックかという論議は
ここでは届かない。
要は“涙の理由(わけ)”と、詰めた涙だけで
現代美術という「わけわからん!」と思われたり、
何でもありじゃん!的な免罪符を知らずうちに手に入れている分野では
作品として成立はするだろう。
しかし、作家はモノを作らねばならない。
そこに気を立ち上らせなくてはいけない。
故に“宝石モドキ”を作るのだ。
これは、提供された涙への
作家の恩返しなのであると僕は「勝手解釈」をする。
(それにても最近このフレーズが多くなったような気もする…)
作家は多分、私小説に出会った時のような
同情やとまどいをもって
それらのエピソードを読んだであろう(と推測する)
正直に言えば、他人の“ささやかな”不幸や“ちっちゃい”感動は
(ここでいう不幸や感動は解像度を大きくしたもの、あるいは倍率を上げたもの)というのは
ごく自然にそそられるものだ。
その結果の涙という“儚い成分でできた”一粒の真珠はとても魅力的だ。
林さんのプロフィールにある「人と人との距離感」というのは
言葉にならないほどの、いや言葉にできないほどの些少な
感情に揺り動かされて、ほろりと落ちる涙、
その涙を流したという事実が
本人が封印したいことであれ、なかれ、
第3者の心をそよっと動かすものであるということだ。
と、同時にあくびをしても涙はこぼれる。
ただ、救いはテレビでさえ、画面の中で切なく泣いている人を見た時、
訳も無くもらい泣きしてしまうほどに
僕たちは情緒的なことだ。
4つある作品のひとつにこんな一文が添えられている。
5/3 15:52 息子誕生
正真正銘、生後6時間目の涙です。
小さな目から数滴の涙が落ちました。
新生児は涙は出ないと言われているので、
“流れる”という表現とは違う“にじむ”ような涙。
泣いている顔も最高。親バカ心の真骨頂の心境。
私のまわりの方すべてに息子を紹介したい気持ちです。
とてもシンプルだけど
誰にでも伝わる強い共感度を持っていると思う。
そして思わず頬も緩む。
誕生の瞬間に立ち会えたかのような共感。
えー、もう一つ…
私はよく涙を流す。たいてい数週間毎日の様に泣く事もある。しかしこの涙を採取する小瓶を前にすると一滴も涙が出ない。最近は愛について考えると涙が溢れ出る。愛、承知されたが報われなかった愛、終ってしまった愛、一度あきらめたのに再度私を呼び止める愛、驚きである。年齢の不一致、性格の不一致、地理的不一致。いつになれば適合する相手は見つかるのだろう。今はミスマッチな愛でも有り難く思う。
涙や、泣くこと自体が精神病的、幼稚、情緒不安定と訓戒される事が多くあるが、私は泣く事は贈り物であり才能であると思う。それは複雑な感情を処理する能力を喚起させるし、心との静寂な交感でもある。私は涙を自制したり、泣く事すら忘れてしまった方々誰でも、誰とでも、この涙を共有したいと願う。
いいです、いいです。これです。(なんだか文体が変わってきているような)
生きているからこそ、涙も流せる、と考えたら少しは救われませんか。
涙の数だけ人生が…なんて歌の文句でもあるまいが
その結晶化された琥珀を見ていると
本物の宝石もその由来は実は涙なのではないか、
そんな気もする。



↑作家さんは遠距離恋愛をされていたようで、
さしずめこれは恋人の“指拓と鼻拓と乳拓と耳拓”。
女性ならわかるんだろうなぁ…
※尚,アップされている画像は主催者の許可を得て撮影されたものです。