瞳孔と虹彩に映り込む私だけの光景…「 岩澤 武司 個展 ~ 瞳景 」
Category : 現代美術シッタカぶり
8月23日→8月28日【 galerie 16 】
↓アクリル板のため反射してしまう画像なのでお許しを


↑まるで洞窟からみているような光景。上から伸びているのは睫毛。


↑カミキリムシを持っている。 ↑鴨川に咲く菜の花。
8枚の横長にトリミングされた写真が
ホワイトキューブに整然と並ぶ。
夏休みを終えたギャラリーはすっかりリニューアル。
眩しいばかりの白い壁に窓のように配置された写真作品は
実は作家である岩澤さん自身の眼である。
「カメラは道具。道具は考えない。
この道具の背後には私の眼があり、頭脳がある。
シャッターを押す時、この頭脳が選択する。
写真家の行為は心の中のことである。客観性はない。」
これはウイリー・ロニスの言葉だが、
作家の眼を通してファインダーの向こうで撮られることを待っているかのように
被写体と撮影者との間には一瞬の蜜月が生まれる。
と同時に撮影者の眼にはその光景が写り込んでいるはずである。
当然写り込んだ光景は鏡像となる。
結果として現像されるなり、
デジタル処理されるなりした光景こそが
写真として成立するというセオリーなど
実はどこにもないはずなのに…。
撮影者の眼に映り込む景色や事象は球面であり、
しかも決してクリアではない。
しかしこれはリアルに「光景を視る」ということを体現している。
光景に被る瞳孔と虹彩。
僕たちは岩澤さんの眼を見ているのであって、
光景そのものを見ているわけではない。
しかしこの光景からは、ある種の生臭ささえ漂う。
それは岩澤さんの肉体の一部である器官が
絶対的に個人を識別するコードであるからだ。
瞳孔と虹彩に見える画像は岩澤さんだけが視ている光景であり、
ほどなく記憶の引き出しにしまい込まれる。
横に長いトリミング。
190cm×60cmのサイズとは自分が入るであろう
棺の底面の大きさである。
死を示唆することで今を生きる自分を強調するものとして捉えていると
作家は言う。
岩澤さんは愛知芸術大学時代は油彩、後にインスタレーションを発表。
17年ぶり(!)の個展は写真という
表現方法に固執しないフリーフォームなアーティストのようだ。
現在は京都市内の中学校の教諭であるという。
「教え子は来るんでしょうか」とギャラリストに尋ねてみると
あまり告知していないとのこと。
これは極私的に“視る”ということ、
認識するということを再検証しているような
実は深いテーマに沿った展覧会であるということを帰り道に思った。
↓アクリル板のため反射してしまう画像なのでお許しを


↑まるで洞窟からみているような光景。上から伸びているのは睫毛。


↑カミキリムシを持っている。 ↑鴨川に咲く菜の花。
8枚の横長にトリミングされた写真が
ホワイトキューブに整然と並ぶ。
夏休みを終えたギャラリーはすっかりリニューアル。
眩しいばかりの白い壁に窓のように配置された写真作品は
実は作家である岩澤さん自身の眼である。
「カメラは道具。道具は考えない。
この道具の背後には私の眼があり、頭脳がある。
シャッターを押す時、この頭脳が選択する。
写真家の行為は心の中のことである。客観性はない。」
これはウイリー・ロニスの言葉だが、
作家の眼を通してファインダーの向こうで撮られることを待っているかのように
被写体と撮影者との間には一瞬の蜜月が生まれる。
と同時に撮影者の眼にはその光景が写り込んでいるはずである。
当然写り込んだ光景は鏡像となる。
結果として現像されるなり、
デジタル処理されるなりした光景こそが
写真として成立するというセオリーなど
実はどこにもないはずなのに…。
撮影者の眼に映り込む景色や事象は球面であり、
しかも決してクリアではない。
しかしこれはリアルに「光景を視る」ということを体現している。
光景に被る瞳孔と虹彩。
僕たちは岩澤さんの眼を見ているのであって、
光景そのものを見ているわけではない。
しかしこの光景からは、ある種の生臭ささえ漂う。
それは岩澤さんの肉体の一部である器官が
絶対的に個人を識別するコードであるからだ。
瞳孔と虹彩に見える画像は岩澤さんだけが視ている光景であり、
ほどなく記憶の引き出しにしまい込まれる。
横に長いトリミング。
190cm×60cmのサイズとは自分が入るであろう
棺の底面の大きさである。
死を示唆することで今を生きる自分を強調するものとして捉えていると
作家は言う。
岩澤さんは愛知芸術大学時代は油彩、後にインスタレーションを発表。
17年ぶり(!)の個展は写真という
表現方法に固執しないフリーフォームなアーティストのようだ。
現在は京都市内の中学校の教諭であるという。
「教え子は来るんでしょうか」とギャラリストに尋ねてみると
あまり告知していないとのこと。
これは極私的に“視る”ということ、
認識するということを再検証しているような
実は深いテーマに沿った展覧会であるということを帰り道に思った。