淡々と粛々と生地を“塗る”…「 TARTANS ~ 岸田 良子 個展 」
Category : 現代美術シッタカぶり
12月13日→12月24日【 galerie 16 】



白地図をいくつかの断片にわけ、境界線は銅メッキした鉛で区分けし、その他の部分は合板にウレタン塗装。ウガンダ、フランス、ジャマイカ、南アフリカ共和国の4点を画廊の壁面に提示する。〈月の昇る夕べの風景〉というゴッホの作品名を展覧会のタイトルにする。画廊をおとずれた人々は、地図の形象と〈月の昇る夕べの風景〉という絵の題名のような言葉の間に宙づりになる。その後画廊を立ち去るとともに、さっきまではっきりと目の前にあった境界線はあいまいになる。あいまいになった地図の色面とタイトルが一緒になって観る者の脳裏に「絵のようなもの」が出現しないだろうか。(白地図解説文より)
この文の中に集約されていると言える、
1991年から始まった岸田さんのライフワークとも言うべき
「白地図」シリーズ(過去ログは http://den393.blog81.fc2.com/blog-entry-235.html )は
前回の「タータンチェック」シリーズの
始まりをもって一応ひと休みした形になっている。
場所を特定するという目的のみならず、
文明、政治、宗教、言語、人種、産業、貿易などの分布や流れ、
また支配の勢力図として視覚的にグラフのような役割も果たす地図について
作家である岸田さんの意志に関わらず“国境”によって
抜き出された国の形象は、確かにゴッホやベケット、パンタの歌詞からとった
タイトルとの不思議な共存状況において観客を宙づりにさせる。
その意味性を観客が探ると何らかの反応が起きて
脳裏に印画されるという仕掛けは
今回のタータン(タータンチェックは和製語)のシリーズで
さらに単純化されたように思える。
ここにあるのは誰が見てもタータンであり、パターンである。
が、そもそもはスコットランドに住む氏族たちが
己の特有性を視認、あるいは誇示するために
作られた(織られた)家紋に相当するものであったようだ。
つまり最初は氏族階級が身につけられる
特権を込めたものだったということ。
同時にその土地ならではの染料や織り方も反映されている。
タータンのウンチクはともかく
会場に展示というよりもレイアウトされた感のある6つの
作品はさて、来られた方の反応などお構いなしに
なんと見事に凛とした佇まいを見せることか。
手法は過去ログ( http://den393.blog81.fc2.com/blog-entry-434.html )を見ていただくとして
80号の存在感は単なるパターンを越えている。
前回も同じ感覚にあったがこの“絵”のまえに立つと思考が一度停止する。
正に宙づりになる。
やがて何を見ているのかを自問しながらタータンと対峙し、
そこから地図と同様の反応がじわじわ起こるのを待つのである。
そのスパンが僕には愉しい。
巨大化された織物は奇しくも氏族の思惑同様に記号化され、
この区別されるための必然(否応無しの)から
あなただけの絵が浮かぶ、のだ。
こんなものを描く意味などどこにあるのか、と問う人がいれば
もしかしたら岸田さんは「どこにあるかないかの問題など些細なこと」と
答えるかも知れない。
アルバースという技法が見せる圧倒的量感による
これほどの存在感は作家の内に秘めた淡々とした制作欲の賜物と言える。
ちなみに伊勢丹のはマクミラン・アンシェントと言われるもので
ここの作品にもある。






白地図をいくつかの断片にわけ、境界線は銅メッキした鉛で区分けし、その他の部分は合板にウレタン塗装。ウガンダ、フランス、ジャマイカ、南アフリカ共和国の4点を画廊の壁面に提示する。〈月の昇る夕べの風景〉というゴッホの作品名を展覧会のタイトルにする。画廊をおとずれた人々は、地図の形象と〈月の昇る夕べの風景〉という絵の題名のような言葉の間に宙づりになる。その後画廊を立ち去るとともに、さっきまではっきりと目の前にあった境界線はあいまいになる。あいまいになった地図の色面とタイトルが一緒になって観る者の脳裏に「絵のようなもの」が出現しないだろうか。(白地図解説文より)
この文の中に集約されていると言える、
1991年から始まった岸田さんのライフワークとも言うべき
「白地図」シリーズ(過去ログは http://den393.blog81.fc2.com/blog-entry-235.html )は
前回の「タータンチェック」シリーズの
始まりをもって一応ひと休みした形になっている。
場所を特定するという目的のみならず、
文明、政治、宗教、言語、人種、産業、貿易などの分布や流れ、
また支配の勢力図として視覚的にグラフのような役割も果たす地図について
作家である岸田さんの意志に関わらず“国境”によって
抜き出された国の形象は、確かにゴッホやベケット、パンタの歌詞からとった
タイトルとの不思議な共存状況において観客を宙づりにさせる。
その意味性を観客が探ると何らかの反応が起きて
脳裏に印画されるという仕掛けは
今回のタータン(タータンチェックは和製語)のシリーズで
さらに単純化されたように思える。
ここにあるのは誰が見てもタータンであり、パターンである。
が、そもそもはスコットランドに住む氏族たちが
己の特有性を視認、あるいは誇示するために
作られた(織られた)家紋に相当するものであったようだ。
つまり最初は氏族階級が身につけられる
特権を込めたものだったということ。
同時にその土地ならではの染料や織り方も反映されている。
タータンのウンチクはともかく
会場に展示というよりもレイアウトされた感のある6つの
作品はさて、来られた方の反応などお構いなしに
なんと見事に凛とした佇まいを見せることか。
手法は過去ログ( http://den393.blog81.fc2.com/blog-entry-434.html )を見ていただくとして
80号の存在感は単なるパターンを越えている。
前回も同じ感覚にあったがこの“絵”のまえに立つと思考が一度停止する。
正に宙づりになる。
やがて何を見ているのかを自問しながらタータンと対峙し、
そこから地図と同様の反応がじわじわ起こるのを待つのである。
そのスパンが僕には愉しい。
巨大化された織物は奇しくも氏族の思惑同様に記号化され、
この区別されるための必然(否応無しの)から
あなただけの絵が浮かぶ、のだ。
こんなものを描く意味などどこにあるのか、と問う人がいれば
もしかしたら岸田さんは「どこにあるかないかの問題など些細なこと」と
答えるかも知れない。
アルバースという技法が見せる圧倒的量感による
これほどの存在感は作家の内に秘めた淡々とした制作欲の賜物と言える。
ちなみに伊勢丹のはマクミラン・アンシェントと言われるもので
ここの作品にもある。