やさしきダブルミーニング…「 加藤 浩史 S H E L T E R 」
Category : 現代美術シッタカぶり
3月20日→4月1日【 GALLERY MARONIE gallery 4 】

金沢美術工芸大学工芸科鋳金コース出身の加藤さんは
修士課程修了後、彫刻家の清水九兵衛氏のアシスタントをされている。
いかに端正に作品を完成させるか、
そのための工芸的センスや弛まざる技への執念というものを
実感するためだったと語る。
よく言われることだし、過去にも何回も書いたが
表現力を支える一定の技術(力・質・量)というものは
漆工や陶芸、加藤さんのような鋳金の他、あらゆるジャンルに於いて
「クリアの次がゼロからの出発」であるという実にシビアな現実がある。
だから「感性」という便利な言葉に惑わされない
職人的なスキルというものが作品の内実に在りながら
決して“ひけらかさない”という謙虚さが美しいのだ。




作品ファイルを拝見する。
思うカタチがどんどん湧き出る感じの
若さの発露がほとばしっていて楽しくて爽快だ。
でも加藤さんは言う。
「あの時は、なんでもかんでもがむしゃらに表現しているというか…」
鋳金出身だけあって、もちろん金属加工がメインだが、
独特の“オチ感”のある、斜に構えた要素が
高感度に作品に反映されていて、とても知的な印象を受けた。
そんな加藤さんなりの変遷の中で
この「シェルター」という作品群は
作家史にあってエポックメイキングなものとなったはずだ。
それは創意の発露というよりも、もっと内省的で静謐である。
決して多弁ではない。
むしろ寡黙にそこに佇む姿は会場を健気な空気で満たしている。
なぜだろう。
それは加藤さんが作家である前の、人として生きる道筋に
“家族”があるからである。
もちろんお嫁さんは家族に相違ないが、
それは「同」であると同時に「対」なものとして
互いに認識される場合が多い。
子供の誕生、出現というものは家族が変容する
とてつもなく大きな句読点になる。
それは互いの潜在的な父性母性が再確認される
作業の保証ができたようなものだから。
シェルターを避難所と解さずにここでは「拠り所」とでも言おう。
加藤さんの「柔らかな拠り所」が新しいフォルムを作り上げた。
家々の小作品たちが整然と展示されている。
あの忌まわしい震災後に見るこれらの家々は
かつてあったもの、あり続けるはずだったものへの
強烈な落胆というものを感じさせ、
ごく普通に生活している現在の僕たちに、
心の奥底の方から「当たり前で有り得ることの大切さ」を痛感させる。
「壁一枚で区切られた空間に家族という運命共同体が自然に寄り添う」ことへの
慈しみと感謝を加藤さんは口にする。
支えてくれる家族あっての作品。
切る、削る、塗る、吹くといった制作過程では
匂いや音にもそれなりの気を使う。
ご実家を制作場にされている加藤さんは当然、ご両親にも同様に
感謝の念を絶やさない。
この家とも矢印ともとれる作品たちは、そのどちらでもあり、
それぞれの顔を持つ家庭を象徴している。
僕は「家族の行方」の幸せな結末を
加藤さん自身が願いを込めて作ってこられたと
例によって勝手に解釈している。
美しく輝き、光を変えていくその家々に託すもの、
それは有形無形の家族愛のシンボルのように思えて仕方がない。
会場には美しい奥様と可愛いお嬢さんがお見えで
まるでスタートレックのメンバーのように
それぞれの胸に特性の夜光塗料塗布の家型ブローチが光っていた。

★ブログにアップされている画像及び動画はギャラリーまたは作家の承諾を得ております。

金沢美術工芸大学工芸科鋳金コース出身の加藤さんは
修士課程修了後、彫刻家の清水九兵衛氏のアシスタントをされている。
いかに端正に作品を完成させるか、
そのための工芸的センスや弛まざる技への執念というものを
実感するためだったと語る。
よく言われることだし、過去にも何回も書いたが
表現力を支える一定の技術(力・質・量)というものは
漆工や陶芸、加藤さんのような鋳金の他、あらゆるジャンルに於いて
「クリアの次がゼロからの出発」であるという実にシビアな現実がある。
だから「感性」という便利な言葉に惑わされない
職人的なスキルというものが作品の内実に在りながら
決して“ひけらかさない”という謙虚さが美しいのだ。






作品ファイルを拝見する。
思うカタチがどんどん湧き出る感じの
若さの発露がほとばしっていて楽しくて爽快だ。
でも加藤さんは言う。
「あの時は、なんでもかんでもがむしゃらに表現しているというか…」
鋳金出身だけあって、もちろん金属加工がメインだが、
独特の“オチ感”のある、斜に構えた要素が
高感度に作品に反映されていて、とても知的な印象を受けた。
そんな加藤さんなりの変遷の中で
この「シェルター」という作品群は
作家史にあってエポックメイキングなものとなったはずだ。
それは創意の発露というよりも、もっと内省的で静謐である。
決して多弁ではない。
むしろ寡黙にそこに佇む姿は会場を健気な空気で満たしている。
なぜだろう。
それは加藤さんが作家である前の、人として生きる道筋に
“家族”があるからである。
もちろんお嫁さんは家族に相違ないが、
それは「同」であると同時に「対」なものとして
互いに認識される場合が多い。
子供の誕生、出現というものは家族が変容する
とてつもなく大きな句読点になる。
それは互いの潜在的な父性母性が再確認される
作業の保証ができたようなものだから。
シェルターを避難所と解さずにここでは「拠り所」とでも言おう。
加藤さんの「柔らかな拠り所」が新しいフォルムを作り上げた。
家々の小作品たちが整然と展示されている。
あの忌まわしい震災後に見るこれらの家々は
かつてあったもの、あり続けるはずだったものへの
強烈な落胆というものを感じさせ、
ごく普通に生活している現在の僕たちに、
心の奥底の方から「当たり前で有り得ることの大切さ」を痛感させる。
「壁一枚で区切られた空間に家族という運命共同体が自然に寄り添う」ことへの
慈しみと感謝を加藤さんは口にする。
支えてくれる家族あっての作品。
切る、削る、塗る、吹くといった制作過程では
匂いや音にもそれなりの気を使う。
ご実家を制作場にされている加藤さんは当然、ご両親にも同様に
感謝の念を絶やさない。
この家とも矢印ともとれる作品たちは、そのどちらでもあり、
それぞれの顔を持つ家庭を象徴している。
僕は「家族の行方」の幸せな結末を
加藤さん自身が願いを込めて作ってこられたと
例によって勝手に解釈している。
美しく輝き、光を変えていくその家々に託すもの、
それは有形無形の家族愛のシンボルのように思えて仕方がない。
会場には美しい奥様と可愛いお嬢さんがお見えで
まるでスタートレックのメンバーのように
それぞれの胸に特性の夜光塗料塗布の家型ブローチが光っていた。

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