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砂の儚きを慈しむ…「 川端 紘一展 」

Category : 現代美術シッタカぶり
6月12日→6月23日【 galerie 16 】



見慣れたギャラリースペースに現れた
2.5トンの砂山。

川端さんは子どもの頃に遊んだ舞鶴の海岸、
その砂遊びをしている自分を
一つの原風景として記憶のファイルの中に収めている。

砂の作品を作り始めて30年以上。
実は川端さんはスケッチの本も出されている画家である。
そのスケッチたるや、もう域を越えた観察力、筆力、センスに
満ちあふれていて、この砂山というインスタレーションを
発表した同一人物とは思えない。
ではなぜ、砂の作品を作るのか。
油絵に限らず絵を描くための段取りとして支持体を作ることから始まる。
川端さんは表現しようと思う“創意”の前行為としての
支持体作りとは何なのかという、
画家としては相応に厳しい自問自答をする。
枠を作り、紙を張り、向かい、絵筆を取り、描く。
画家としてのいわば「環境作り」とはとりもなおさず、
枠ありき、という前提があってのことであろう。
想像するに「実体を実感する」というリアルで純粋な発露というものを、
カンバスの枠という「エリア内」に反映させようとすることへの
川端さんなりの悩ましさなのだろう。
「枠から離れた作品作り」というものを
元来の絵の創作と平行して発表してきたのは
それなりの川端さんの決意表明であることは確かだと思う。

アトリエにビニールシートを敷いて、
砂を何度もふるいにかけて、細かな粒子を作る。
湿っている砂をなるべく薄っぺらにして乾燥を促す。
これほどの量の砂をふるいにかける様子を思い浮かべると
“手塩にかけた”という言葉が浮かんでくる。
まず、中心となる棒を立てて、
上から少しずつ砂をかける。
徐々に足元に砂が広がっていくから最後は
バケツで投げかけるようにすると言う。
この時点ではまだ丘のような丸みを帯びたアタマが
送風機の風によって、それぞれの砂粒の比重の差によって
残るものと飛んで行くものとに別れる。
よって、この砂山の頂上は人の手で作為的に造形されたものではない。
風にゆだねられた砂の必然なのである。
山裾には風紋がたなびき、湖のような“間”ができる。
会期中に山の表面から雪崩現象も起きて
まるで生きて展示されているかのように砂は息づいている。

川端さん作品に「魂砂」という、
いわば、この砂の作品の根源を成すものがあって
当時のファイルを興味深く見せていただいた。
この造形は川端さんにとっては女性の性なるものの象徴としてあるもので
自分が死んでこの世から無くなった時に
このライフワークである作品群はそのまま、元の砂として
舞鶴の海に流すことを息子さんにも伝えてあると話された。
展示されている小山も会期終了後にはやはり元の砂に戻る。
砂のなすがままに、川端さんの思いが込められている。

ふと、作品を海に流すイメージと散骨が重なり、
失礼ながら訊いてみたところ、
やはりというか、当然、ご自分の骨は海に撒いて欲しいと
遺書に書いてある、と笑いながら話されていた。

CIMG7999.jpg

↑ 全ての原型はここにあり。砂の小山に指をスーッと入れて筋を作る。
 その一筋が様々なイマジネーションによって「女性」の象徴になる。

CIMG7997.jpg

CIMG7998.jpg

↑何百というその魂砂が棚にのせられて、置かれているうちに、やがて蟻や虫が表面を歩く。
その足跡や彼らが崩す過程も作品として解釈される。
崩れた作品は入れ替えて、川端さんは生涯できうる限り、入れ替えていく。
ご自分が亡くなったら、全て崩して海に戻す。
中央に見えるのは作品群を「観賞するため」のテニスコートの椅子。
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