確信と作為の間に生まれけるもの…「 田代 幸 陶展 − the thing that exists there − 」
Category : 現代美術シッタカぶり

8月21日→9月2日【 GALLERY MARONIE gallery 3 】
時々思うのが、陶芸と版画のこと。
シッタカはどっちもずぶずぶの素人なのだが、
この二つはいわゆる絵画と呼ばれるものと
微妙な相異があるように思える。
特殊な例としては、こねた土を森の中に放置するという
「焼かない陶芸」というのもあるにはあったが、
押し並べて作家はあるところまでしか作品についての決定権を持ち得ない。
版画は版木やニードルで引っ掻いた銅板そのものは作品とは呼ばない。
木の材質、インクや腐食の具合、刷られる紙などの
あげていけばきりがない不確定要素の中で
創意と乖離した結果が仮に出ても
作家は「版画」とはそもそもがそういうものだという認識を持っているはずだ。
陶芸もまた支持体は土であるものの、
そこから先は予期せぬ明日の連続模様だ。
焼いて、焼かれて“我が子”に初めて対面する時の覚悟も
それなりに承知しているのが陶芸家。
「なるようにしかならない」ということは
別な言い方ですれば「一筋縄ではいかない」ということ。
ゆだねているのに「責任」だけは厳然としてそこに在る。
陶芸作品の面白さとは、この確信と作為の間の産物、
つまり作家の理想に限りなく近づけられた
新しい皮膚がつくられ、量感が与えられ、形が示されることで
そこに存在することだ。
綿密な構成のもとで、一言一言きっちり台本通りに読み進める芝居や
一音たりとも外さずに正確にスコア通りに演奏する音楽、
絵コンテ通りに忠実に再現されるシーンのように
“思った通りの作品”をつくるというのは、
陶芸に関わらず職人の手技による工芸の世界の話に近い。
もちろん現代美術がその対極にあるなどとは言わないが、
僕たちはそこにある創意や作為を僅かでも汲みながら、
作品を鑑賞する楽しみに代えている。



田代さんの作品に小さく息を呑む。
どこからか掘り起こしたか、採取したか。
というような、いずれにせよ、あまり見たことのない磁器作品。
静かな感嘆。
見ているうちにだんだん作為が無くなっていき、
最後には有機体の残滓のようにしか思えなくなっている。
過去のファイルを拝見すると、
どれもこれほどの“うねり”は希薄であり、むしろスタイリッシュ。
失礼を承知で言えば、遥かに現在の作品の方がバタ臭い。
形として“まとめあげよう”とする魂胆が薄い。
タイトルの「ただ“そこに在る”もの」に込められたものは
いかにして作為を消すことができるかという意志の現れにも思える。
表層はやがて朽ちて無くなり、
生物の基本的な構造が最後に残る。
私たちはそれを小宇宙と呼び習わしたりする。
ここにあるのは田代さんから遠く離れた「そこに在るもの」だ。
驚くのはパーツの集合ではないということ。
こねた土の塊の端(どこが端かは別として)から形を作っていくという。
まるで木の塊から表情を彫り上げる過程と同じだ。
陶芸というよりも「焼きを入れる彫刻」といった風情である。
そのフジツボのようなまたは生物の器官のような
あるいは拡大された細胞模型のような“それ”と
貼り付いているベースが同じ土とは思えないほどに
質感が異なっている所にも驚かされた。
全くスケッチせずにひねるということは、
こういう結末を見せてくれるということである。
最後に田代さんの入選歴をご紹介。
第5回 出石磁器トリエンナーレ
第45・46回 朝日陶芸展
第25・27回 朝日現代クラフト展
第56・57回 ファエンツァ国際陶芸展
2012年 京都美術工芸ビエンナーレ



