「 中村 譲司 展 」
Category : 現代美術シッタカぶり
2013/1/ 22 → 2/3【 GALLERY MARONIE gallery 4 】
個展を見終わったタイミングに見た「プロメテウス」の“例の”ディテールに懐かしさを覚え、
こりゃギーガーがそもそも好きでなかったら、まず縁のない映画だろうなと…。
余談のようで余談でない導入。

ついふらふらと磁石のように“絆(ほだ)される”ディテールや
そのものが放つテクスチャーに、言い知れぬ快感が呼び起こされる瞬間がある。
3ヶ月ぶりに訪れたギャラリーで僕はとてもラッキーな出会いをしたと思っている。
それは実にシンプルで、ゆえにジッと内部に秘めた力を押し殺しているような
なんというか、作品が持つテーマに見事に沿うた豪胆な印象を与えてくれた。
それにしても “焼物” という造形の逃れられない縛りの中で
なんと轟々磊落に作品を作るのかと、
昨今の若手と呼ばれる人達の凄まじいまでの創作執念に
ただただ感服するばかりだ。

その作品を照らす光はたった4つのライトである。
光の演出は凝れば凝るほどに実体をぼかしてしまう落とし穴が潜んでいる。
引き算の演出ほど勇気の要る作業はない。
中村さんは「展示物、つまり美術品としての置き方、見方を念頭に置いて
今回の展示に臨んだ」と仰っていた。
私事で恐縮だが、改めてホワイトキューブに好感をもって佇むという
己の趣向が確認されたような展示だった。
というのも、昨今の村起し的現代美術イベントに見られる展示に
作品と置かれる環境との違和感を感じてしまい、
どうしても馴染めない部分があったからである。
言い過ぎは承知で無節操な展示もあるということを感じてしまうのだ。
さて中村さんの作品は武具をイメージして作られた陶のオブジェである。
先にも書いた美術品展示のセオリーというか演出を踏襲したことによる、
「鎮座」という印象が強く、武具の持つ独特な緊張感と同時に
崇拝の対象にも見え、そのせいか宗教的、もっと言うと呪術的な道具としても
解釈できて、頭の中でいろいろと遊べて(失礼)
作家の造形欲というものの貪欲さを垣間みる思いがする。
奥にある一体とも対にも見える作品はボートのオールのようなものと
中村さんは言っていた。
つまり片方が用を成す瞬間の、もう片方はやはりどこかで用を成しているという
作家ならではの観念の世界で説明できるもので、
この完璧なシンメトリックなシルエットは僕などには
リドリー・スコットが好みそうな(ギーガーの持つ有機的なディテールとは好対象な)
彼の星の宇宙船にも見えてきて楽しい。
手前の対の作品は両端のフォルムが月と太陽をシンボライズしていて
やはりどこかでとてもプリミティヴな印象を受ける。
作家の思惑とはかけ離れているかも知れないが、
古代と未来の間を行き交うある種の信号データを立体化してみたら
突然こんなカタチが現れたといったSFチックな愉快な想像も与えてくれる作品である。
金属と見紛うやきものの、これほどまでに自由にコラボレーションできる(させる)
中村さんの手腕や発想は、さらなる焼物のK点越えを目指すことだろう。



個展を見終わったタイミングに見た「プロメテウス」の“例の”ディテールに懐かしさを覚え、
こりゃギーガーがそもそも好きでなかったら、まず縁のない映画だろうなと…。
余談のようで余談でない導入。

ついふらふらと磁石のように“絆(ほだ)される”ディテールや
そのものが放つテクスチャーに、言い知れぬ快感が呼び起こされる瞬間がある。
3ヶ月ぶりに訪れたギャラリーで僕はとてもラッキーな出会いをしたと思っている。
それは実にシンプルで、ゆえにジッと内部に秘めた力を押し殺しているような
なんというか、作品が持つテーマに見事に沿うた豪胆な印象を与えてくれた。
それにしても “焼物” という造形の逃れられない縛りの中で
なんと轟々磊落に作品を作るのかと、
昨今の若手と呼ばれる人達の凄まじいまでの創作執念に
ただただ感服するばかりだ。

その作品を照らす光はたった4つのライトである。
光の演出は凝れば凝るほどに実体をぼかしてしまう落とし穴が潜んでいる。
引き算の演出ほど勇気の要る作業はない。
中村さんは「展示物、つまり美術品としての置き方、見方を念頭に置いて
今回の展示に臨んだ」と仰っていた。
私事で恐縮だが、改めてホワイトキューブに好感をもって佇むという
己の趣向が確認されたような展示だった。
というのも、昨今の村起し的現代美術イベントに見られる展示に
作品と置かれる環境との違和感を感じてしまい、
どうしても馴染めない部分があったからである。
言い過ぎは承知で無節操な展示もあるということを感じてしまうのだ。
さて中村さんの作品は武具をイメージして作られた陶のオブジェである。
先にも書いた美術品展示のセオリーというか演出を踏襲したことによる、
「鎮座」という印象が強く、武具の持つ独特な緊張感と同時に
崇拝の対象にも見え、そのせいか宗教的、もっと言うと呪術的な道具としても
解釈できて、頭の中でいろいろと遊べて(失礼)
作家の造形欲というものの貪欲さを垣間みる思いがする。
奥にある一体とも対にも見える作品はボートのオールのようなものと
中村さんは言っていた。
つまり片方が用を成す瞬間の、もう片方はやはりどこかで用を成しているという
作家ならではの観念の世界で説明できるもので、
この完璧なシンメトリックなシルエットは僕などには
リドリー・スコットが好みそうな(ギーガーの持つ有機的なディテールとは好対象な)
彼の星の宇宙船にも見えてきて楽しい。
手前の対の作品は両端のフォルムが月と太陽をシンボライズしていて
やはりどこかでとてもプリミティヴな印象を受ける。
作家の思惑とはかけ離れているかも知れないが、
古代と未来の間を行き交うある種の信号データを立体化してみたら
突然こんなカタチが現れたといったSFチックな愉快な想像も与えてくれる作品である。
金属と見紛うやきものの、これほどまでに自由にコラボレーションできる(させる)
中村さんの手腕や発想は、さらなる焼物のK点越えを目指すことだろう。


