「 家現 一恵 油絵展 」
Category : 現代美術シッタカぶり
2013.12.17〜12.29【 Gallery 知 】
ギャラリーサイトにアップされた家現さんのスナップに写っていた
作品を見て、無性に見たくなりました。
この日は夜勤。限られた時間をどう使おうか悩むところです。
でも今日はこのギャラリーだけに絞ってみようと思い立ち、
曇天な御所南に自転車を走らせました。
家現(かげん)さんという珍しいお名前の作家さんですが、
ほどなくして会場に見えたご本人は、
まあるく大きなお腹をたずさえたプレママでした。

スナップに写っていた作品というのが、
独身時代のアトリエ兼住まいである部屋の光景でした。
その本当に何の変哲も無い部屋を描いた作品になぜ
これほどまでに惹かれるのか、実は中々うまく言えないのです。
あえて言うなら「近い…」でしょうか。



何を描くべきか、そしてそこに何を映すべきかという命題に
果たして当の画家は、どのような経過によって辿り着けるものなんだろうか…
よく考えます。
家現さんはステートメントでとてもわかりやすくヒントを示してくれます。
自然にある色を認識するためには勿論、光と影が必要です。
普通、私たちが見ている色、光の加減は
当然自分にしか照準を合わせることができません。
だからこそ「絵画」(広く美術と言ってしまうよりも絵画です)に価値があるのです。
だからこそ、これほどの、様々なタイプ、スタイルをもった
画家が次々と登場するわけです。
なぜなら、全ての目に見えるものに色が存在するからです。
家現さんは自分の部屋を描いています。
僕は「自然」を風景と解釈してしまうよりも
この部屋もまた自然の一部なのだと理解します。
家現さんの部屋は多分、僕たちの知らないルールによって
家現さん特有の環境を醸し出していると思います。
この部屋の4点の作品はシリーズとも受け取れますし、
一見すると習作のように見えるかもしれません。
しかし一点づつゆっくり見てまわると
家現さんが筆を置く絶妙な“頃合い”が見てとれます。
その頃合いがとても気持ちよく、さらに絵に独特な清潔感を与えています。
いつも見ている、座っている、着ているものは
当然、使う人がその質感を知っていますから、
そのように描くのが当たり前のように思われるかも知れませんが、
布団に鉛が入っているような絵は、或る種の付加価値を以て、
その絵を成立させます。
それは「意外性」です。
家現さんの絵にはもしかしたら意外性は邪魔になるだけではないでしょうか。
家現さんは描く対象に“凝る”ことには一つの懸念を持たれていると
勝手にシッタカぶります。
というのも、オーナーも仰っていますしたが、
色盲、色弱の真逆にあたる「視覚的特徴」を家現さんはお持ちのようなのです。
つまり忠実に感じた色を表現しようとすると際限が無くなってしまうのです。
ステートメントでも「見える色」という表現をされています。
本来ならそこに或る色、それをカタチづくる色のうち、
僕たちは何十分の一しか視覚として認識していないし、認識できないのかも知れません。
とても生真面目な絵と捉えられるかも知れませんが、
そんなお話を聞くうちに、これらの作品の独特な世界は
増々、僕にとって「近く」なります。
さて、結婚後の新居の部屋の絵は、また雰囲気が違います。
なんというか、無理にディテールを描き込まない感じで、
一目で「引き算」しているなぁと感じました。
これら一連の部屋の作品は、今そこにある自然を
家現さん独自の色センサーによって、ある悩ましさを道連れに
描き上げたもののように思えます。


「何をこれから描いていくのか、考えますねぇ」とにこやかに語る家現さん。
大好きなセザンヌのように描いて“みた”のか、
描いて“しまった”のか、描いて“楽しんだ”のかは
ご本人のみぞ知るところですが、
DMにもあるリンゴの静物画を見ると、
何か自分の中できちんと絵を見ることを促されているような気持ちになりました。




ギャラリーサイトにアップされた家現さんのスナップに写っていた
作品を見て、無性に見たくなりました。
この日は夜勤。限られた時間をどう使おうか悩むところです。
でも今日はこのギャラリーだけに絞ってみようと思い立ち、
曇天な御所南に自転車を走らせました。
家現(かげん)さんという珍しいお名前の作家さんですが、
ほどなくして会場に見えたご本人は、
まあるく大きなお腹をたずさえたプレママでした。

スナップに写っていた作品というのが、
独身時代のアトリエ兼住まいである部屋の光景でした。
その本当に何の変哲も無い部屋を描いた作品になぜ
これほどまでに惹かれるのか、実は中々うまく言えないのです。
あえて言うなら「近い…」でしょうか。



何を描くべきか、そしてそこに何を映すべきかという命題に
果たして当の画家は、どのような経過によって辿り着けるものなんだろうか…
よく考えます。
家現さんはステートメントでとてもわかりやすくヒントを示してくれます。
自然にある色を認識するためには勿論、光と影が必要です。
普通、私たちが見ている色、光の加減は
当然自分にしか照準を合わせることができません。
だからこそ「絵画」(広く美術と言ってしまうよりも絵画です)に価値があるのです。
だからこそ、これほどの、様々なタイプ、スタイルをもった
画家が次々と登場するわけです。
なぜなら、全ての目に見えるものに色が存在するからです。
家現さんは自分の部屋を描いています。
僕は「自然」を風景と解釈してしまうよりも
この部屋もまた自然の一部なのだと理解します。
家現さんの部屋は多分、僕たちの知らないルールによって
家現さん特有の環境を醸し出していると思います。
この部屋の4点の作品はシリーズとも受け取れますし、
一見すると習作のように見えるかもしれません。
しかし一点づつゆっくり見てまわると
家現さんが筆を置く絶妙な“頃合い”が見てとれます。
その頃合いがとても気持ちよく、さらに絵に独特な清潔感を与えています。
いつも見ている、座っている、着ているものは
当然、使う人がその質感を知っていますから、
そのように描くのが当たり前のように思われるかも知れませんが、
布団に鉛が入っているような絵は、或る種の付加価値を以て、
その絵を成立させます。
それは「意外性」です。
家現さんの絵にはもしかしたら意外性は邪魔になるだけではないでしょうか。
家現さんは描く対象に“凝る”ことには一つの懸念を持たれていると
勝手にシッタカぶります。
というのも、オーナーも仰っていますしたが、
色盲、色弱の真逆にあたる「視覚的特徴」を家現さんはお持ちのようなのです。
つまり忠実に感じた色を表現しようとすると際限が無くなってしまうのです。
ステートメントでも「見える色」という表現をされています。
本来ならそこに或る色、それをカタチづくる色のうち、
僕たちは何十分の一しか視覚として認識していないし、認識できないのかも知れません。
とても生真面目な絵と捉えられるかも知れませんが、
そんなお話を聞くうちに、これらの作品の独特な世界は
増々、僕にとって「近く」なります。
さて、結婚後の新居の部屋の絵は、また雰囲気が違います。
なんというか、無理にディテールを描き込まない感じで、
一目で「引き算」しているなぁと感じました。
これら一連の部屋の作品は、今そこにある自然を
家現さん独自の色センサーによって、ある悩ましさを道連れに
描き上げたもののように思えます。


「何をこれから描いていくのか、考えますねぇ」とにこやかに語る家現さん。
大好きなセザンヌのように描いて“みた”のか、
描いて“しまった”のか、描いて“楽しんだ”のかは
ご本人のみぞ知るところですが、
DMにもあるリンゴの静物画を見ると、
何か自分の中できちんと絵を見ることを促されているような気持ちになりました。



