「 池本 晃子 展 」
Category : 現代美術シッタカぶり
2014.1.28〜2.2【 ART SPACE NIJI 】
昔むかし、顔は男の履歴書なんていう言葉を聞いたことがありました。
これはよもや差別的な表現になってしまうかも知れません。
つまりは顔そのものが、その人となりを表してしまう
強烈でかつ重要なファクターであるということは
今も昔も変わらないということです。
この間、街ネタとしてあったのが
面接時に顔で採用か否かを決定するとした人が
かなりのパーセンテージで居たということが話題になっていました。
人間が露出している部分として顔はまぁ、年中無休であり、
そのシワもたるみも辿ってみれば、要因はしっかり明確であって、
問題は自己認識として、己の顔についてどうオトシマエをつけるか、
ということになります。
僕は介護という仕事柄、深く刻まれたシワや老斑、
あるいは薄くなった皮膚というものと常に接しています。
果たしてシミやシワは老いの果ての結果として、
避けようもないリアルな様相として識別されていますが、
僕などは、それらの持つネガティブなサインを
時として造形の一種としてみなしてしまう事があります。
それはよく見るとまるで風景のようです。
手入れされた畑の畝(うね)を見ていたら
かつてどれだけの収穫があったことだろうと思ったりもします。
老いるということへの異常な恐怖がもたらした産物が今、
テレビの画面の向こうで盛んに警告をしています。
しかし、高齢でありながらシワひとつない顔など
誰が素敵だと思うでしょう。
齢(よわい)を重ねるということの
抗えぬ事実をしっかり自分自身で受け入れてこそ、
未来を考えるということに繋がりもするし、
また「覚悟」の意味も年齢に比例して変化していくものだという
認識を改めて持つということにもなります。
さて、池本さんの初めての個展。
美術大学の洋画クラス研究生修了より足掛け7年越しの個展ということになります。
小さな声で「やっとできるようになりました」と応える池本さんの
この個展に寄せる思いはひとかたならぬものがあったことと思います。
個展には個展なりのエネルギーを費やし、
僕がいつも使う言葉ですが、どう観客にとられても
作者にとっての「意思表明」を大きく掲げたようなものですから…
DMに使われていた作品がこれほどの大きさとは思わなかっただけに
そのディテールに正直驚きました。
しかしこれは勿論スーパーリアリズムでもなんでもありません。
池本さんも、目に見える「顔景(これは造語です)」の向こうに
垣間見える「生きること、生きていくこと、
生き続けなければならないこと」という
たゆまぬ力を支持体からどう伝えていくべきか、やはり悩んできたと思います。
描かなければならない要素、つまり手数は年齢と共に、
また加齢と共に増えていきます。
一方、子どもはつるんとした顔です。
まぁ、それはそれで難しいと思います。
一枚、絶妙なトリミングの作品があって、
目の下の一部しか画面に入っていません。
このことは画面全体に影響を与える構図で、
この絵はすでにこれでうまくいきました。
目の描かれている割合については目を描き切ってしまうことへの
恐れや動揺もあるようです。
ならば、というわけでもありませんが
(池本さんの描写力は素晴らしいものがありますから)
この勇断が見事に反映された一枚となっています。
もう一枚、ベニヤに描かれた作品は
比較的モデルが若いものですが、これも大正解。
池本さんはガリガリと躊躇なく描きたかったということで、
筆跡をなるべく残さない他の作品に比べて
絵そのものがアグレッシヴです。
でもまだ若い彼の“傷”はこれから時間をかけて修復もできるし、
今はその筆跡が若さの勢いのようにも捉えられます。
これが高齢の方であったなら、もっと悲壮感が前面に出てしまうでしょう。
なめらかに刻まれたシワと、
血ばしった傷が、それぞれに生きて来た時代を
カンバスに記しています。




↑展示作品の中では実験的なもの。琵琶湖で実際に浮かんでもらってます。


↑これがベニヤに描かれたもの。



昔むかし、顔は男の履歴書なんていう言葉を聞いたことがありました。
これはよもや差別的な表現になってしまうかも知れません。
つまりは顔そのものが、その人となりを表してしまう
強烈でかつ重要なファクターであるということは
今も昔も変わらないということです。
この間、街ネタとしてあったのが
面接時に顔で採用か否かを決定するとした人が
かなりのパーセンテージで居たということが話題になっていました。
人間が露出している部分として顔はまぁ、年中無休であり、
そのシワもたるみも辿ってみれば、要因はしっかり明確であって、
問題は自己認識として、己の顔についてどうオトシマエをつけるか、
ということになります。
僕は介護という仕事柄、深く刻まれたシワや老斑、
あるいは薄くなった皮膚というものと常に接しています。
果たしてシミやシワは老いの果ての結果として、
避けようもないリアルな様相として識別されていますが、
僕などは、それらの持つネガティブなサインを
時として造形の一種としてみなしてしまう事があります。
それはよく見るとまるで風景のようです。
手入れされた畑の畝(うね)を見ていたら
かつてどれだけの収穫があったことだろうと思ったりもします。
老いるということへの異常な恐怖がもたらした産物が今、
テレビの画面の向こうで盛んに警告をしています。
しかし、高齢でありながらシワひとつない顔など
誰が素敵だと思うでしょう。
齢(よわい)を重ねるということの
抗えぬ事実をしっかり自分自身で受け入れてこそ、
未来を考えるということに繋がりもするし、
また「覚悟」の意味も年齢に比例して変化していくものだという
認識を改めて持つということにもなります。
さて、池本さんの初めての個展。
美術大学の洋画クラス研究生修了より足掛け7年越しの個展ということになります。
小さな声で「やっとできるようになりました」と応える池本さんの
この個展に寄せる思いはひとかたならぬものがあったことと思います。
個展には個展なりのエネルギーを費やし、
僕がいつも使う言葉ですが、どう観客にとられても
作者にとっての「意思表明」を大きく掲げたようなものですから…
DMに使われていた作品がこれほどの大きさとは思わなかっただけに
そのディテールに正直驚きました。
しかしこれは勿論スーパーリアリズムでもなんでもありません。
池本さんも、目に見える「顔景(これは造語です)」の向こうに
垣間見える「生きること、生きていくこと、
生き続けなければならないこと」という
たゆまぬ力を支持体からどう伝えていくべきか、やはり悩んできたと思います。
描かなければならない要素、つまり手数は年齢と共に、
また加齢と共に増えていきます。
一方、子どもはつるんとした顔です。
まぁ、それはそれで難しいと思います。
一枚、絶妙なトリミングの作品があって、
目の下の一部しか画面に入っていません。
このことは画面全体に影響を与える構図で、
この絵はすでにこれでうまくいきました。
目の描かれている割合については目を描き切ってしまうことへの
恐れや動揺もあるようです。
ならば、というわけでもありませんが
(池本さんの描写力は素晴らしいものがありますから)
この勇断が見事に反映された一枚となっています。
もう一枚、ベニヤに描かれた作品は
比較的モデルが若いものですが、これも大正解。
池本さんはガリガリと躊躇なく描きたかったということで、
筆跡をなるべく残さない他の作品に比べて
絵そのものがアグレッシヴです。
でもまだ若い彼の“傷”はこれから時間をかけて修復もできるし、
今はその筆跡が若さの勢いのようにも捉えられます。
これが高齢の方であったなら、もっと悲壮感が前面に出てしまうでしょう。
なめらかに刻まれたシワと、
血ばしった傷が、それぞれに生きて来た時代を
カンバスに記しています。




↑展示作品の中では実験的なもの。琵琶湖で実際に浮かんでもらってます。


↑これがベニヤに描かれたもの。


