「夜咄(よばなし) 〜 田中 武 」
Category : 現代美術シッタカぶり
2014.2.1〜2.22【 imura art gallery | kyoto 】
正確に作り、忠実に再現し伝えていった古代の美術から
作家自身の思いを作品に投影・反映していく現代の美術では
人間の煩悩というのは作家にとって、とても魅力的な題材です。
それこそが人間だから、と一言で表すにはあまりに
複雑で、かつ単純でもある煩悩を打ち消すことで
「無」の境地に至るという日本独自の精神性は
それ故に他を寄せ付けない高い造形美を培ってきたとも言えます。
さて、お釈迦様の弟子で、修行を積んで悟りを開いた高い位のお坊さんを
羅漢(らかん)と呼びます。
今回の展示でひと際目をひく高さ2mにもなる大作2点は
田中さんがシリーズとして数年前から取り組んでいる「十六恥漢図」の新作です。
これは羅漢を描いた「十六羅漢図」になぞらえたもので、
いわば悟りとは正反対に位置する煩悩、人間の欲を表現したものです。
崇高で神々しい(当然それは美しさを伴うものとして)表現というのは
求心的な作用を及ぼし、かつてより畏敬の念を抱かせるに充分な効果があります。
そして煩悩は浮世に漂う、
いわば人心に潜む塵芥(ちりあくた)のようなものです。
だからこそ僕たちはそれに惹かれるのです。
届かない世界よりも、今そこにあるものを愉しもうとします。
妄想し、享受し、愉楽し、ただれる世界は
体に悪いものほどおいしいという定理と通低します。
しかし、ここで肝心なのは煩悩という誰でもが知りうる業のようなものを
描こうとする時、説得力がなければ
作家にとってはだたのマスターベーションになってしまうということです。
わかりやすいことを描くためにはやはり技が要るということです。
「十六恥漢図」は独特なバランス感覚あふれる異次空間の中に
存在する女性を描いています。
性差という観点で話を進めると多分にややこしくなるのでここでは避けますが
食べることや飾ることに、ならではのアプローチで執着する姿は
やはり女性特有のものです。
今回はそこに「性の妄想」とも言うべき姿を表しています。
京都の六波羅蜜寺にある「木造空也上人立像」を部分的に模して
口から五人、肩に一人の男が描かれています。
空也の口から吐き出されているのは「南無阿弥陀仏」の6字を
視覚的に表現したものですが、彼女もまた念仏を唱えるがごとく、
夜な夜な妄想に遊んでいるのです。
画面の下方に描かれた花々は狩野派などのいわゆる手本帳である、
粉本(ふんぽん)をモチーフにしたものです。
粉本とは筆法が事細かに書かれたもので、
狩野派一門の大勢の絵師に先祖伝来の粉本を学ばせることで
(というのも御用絵師だからですが)画法を共有し、
スムーズに制作に打ち込めるようにしたものではないかと
シッタカぶったりします。

今回のタイトルにある「夜咄(よばなし)」とは
文字通り「夜、話をすること」であり、
「夜咄の茶事」というのは冬至に近い頃から立春までの間、
夕暮れ時から行われる茶事のことを言うらしいのです。
中々に楽しそうではありませんか、と思っていたら
ロウソクの光の下での所作は
もっとも技巧を要する茶事であるとも書かれていました。
なるほど…

で、夜にまつわる作品がいくつかありまして、
面白いのは絵のモデルさんになられた女性が休憩時間におもむろに
ポテチを開き、無心に食べていた姿に作家は見事にインスパイアされたようで、
暗いお部屋で一人むさぼる図となったと田中さんご本人から
エピソードというか秘話を聞かされて妙に感心してしまったことです。
無心っていうのは確かにココロ動かされるものがあります。

これからラブホにしけこむつもりか、説得しているのか、
男も女も、さりげなく煩悩の火だるまと化しておる、そんな作品もあります。


全面にモザイクのかかった、夜に咲く花たち。
確かに俗的に言う「夜に咲く花」たちは
秘めやかに知る人だけが知り得る、香しさを漂わす
超限定品ではあります。
田中さんは福岡の出身で、
九州産業大学芸術学部で学びました。
東京・高島屋での初個展はかなりの衝撃をもって迎えられたようです。
ポートフォリオを抱えながら東京中のギャラリーを回ったと
屈託なく笑う田中さんですが、とても芯の強い、
タフな方とお見受けし、またその人柄もとても魅力的でした。
アトリエのある福岡、東京、そして今回の京都初個展から
活動ベースの輪郭がはっきりしてきた田中さんは
それぞれの利点を生かしつつ、
正にこれから目が離せない作家さんです。
この絵に出会える機会がありましたらぜひ、
実物をその目でご覧ください。
その画力と田中さんだけのセンスを堪能していただきたいものです。




正確に作り、忠実に再現し伝えていった古代の美術から
作家自身の思いを作品に投影・反映していく現代の美術では
人間の煩悩というのは作家にとって、とても魅力的な題材です。
それこそが人間だから、と一言で表すにはあまりに
複雑で、かつ単純でもある煩悩を打ち消すことで
「無」の境地に至るという日本独自の精神性は
それ故に他を寄せ付けない高い造形美を培ってきたとも言えます。
さて、お釈迦様の弟子で、修行を積んで悟りを開いた高い位のお坊さんを
羅漢(らかん)と呼びます。
今回の展示でひと際目をひく高さ2mにもなる大作2点は
田中さんがシリーズとして数年前から取り組んでいる「十六恥漢図」の新作です。
これは羅漢を描いた「十六羅漢図」になぞらえたもので、
いわば悟りとは正反対に位置する煩悩、人間の欲を表現したものです。
崇高で神々しい(当然それは美しさを伴うものとして)表現というのは
求心的な作用を及ぼし、かつてより畏敬の念を抱かせるに充分な効果があります。
そして煩悩は浮世に漂う、
いわば人心に潜む塵芥(ちりあくた)のようなものです。
だからこそ僕たちはそれに惹かれるのです。
届かない世界よりも、今そこにあるものを愉しもうとします。
妄想し、享受し、愉楽し、ただれる世界は
体に悪いものほどおいしいという定理と通低します。
しかし、ここで肝心なのは煩悩という誰でもが知りうる業のようなものを
描こうとする時、説得力がなければ
作家にとってはだたのマスターベーションになってしまうということです。
わかりやすいことを描くためにはやはり技が要るということです。
「十六恥漢図」は独特なバランス感覚あふれる異次空間の中に
存在する女性を描いています。
性差という観点で話を進めると多分にややこしくなるのでここでは避けますが
食べることや飾ることに、ならではのアプローチで執着する姿は
やはり女性特有のものです。
今回はそこに「性の妄想」とも言うべき姿を表しています。
京都の六波羅蜜寺にある「木造空也上人立像」を部分的に模して
口から五人、肩に一人の男が描かれています。
空也の口から吐き出されているのは「南無阿弥陀仏」の6字を
視覚的に表現したものですが、彼女もまた念仏を唱えるがごとく、
夜な夜な妄想に遊んでいるのです。
画面の下方に描かれた花々は狩野派などのいわゆる手本帳である、
粉本(ふんぽん)をモチーフにしたものです。
粉本とは筆法が事細かに書かれたもので、
狩野派一門の大勢の絵師に先祖伝来の粉本を学ばせることで
(というのも御用絵師だからですが)画法を共有し、
スムーズに制作に打ち込めるようにしたものではないかと
シッタカぶったりします。


今回のタイトルにある「夜咄(よばなし)」とは
文字通り「夜、話をすること」であり、
「夜咄の茶事」というのは冬至に近い頃から立春までの間、
夕暮れ時から行われる茶事のことを言うらしいのです。
中々に楽しそうではありませんか、と思っていたら
ロウソクの光の下での所作は
もっとも技巧を要する茶事であるとも書かれていました。
なるほど…

で、夜にまつわる作品がいくつかありまして、
面白いのは絵のモデルさんになられた女性が休憩時間におもむろに
ポテチを開き、無心に食べていた姿に作家は見事にインスパイアされたようで、
暗いお部屋で一人むさぼる図となったと田中さんご本人から
エピソードというか秘話を聞かされて妙に感心してしまったことです。
無心っていうのは確かにココロ動かされるものがあります。

これからラブホにしけこむつもりか、説得しているのか、
男も女も、さりげなく煩悩の火だるまと化しておる、そんな作品もあります。


全面にモザイクのかかった、夜に咲く花たち。
確かに俗的に言う「夜に咲く花」たちは
秘めやかに知る人だけが知り得る、香しさを漂わす
超限定品ではあります。
田中さんは福岡の出身で、
九州産業大学芸術学部で学びました。
東京・高島屋での初個展はかなりの衝撃をもって迎えられたようです。
ポートフォリオを抱えながら東京中のギャラリーを回ったと
屈託なく笑う田中さんですが、とても芯の強い、
タフな方とお見受けし、またその人柄もとても魅力的でした。
アトリエのある福岡、東京、そして今回の京都初個展から
活動ベースの輪郭がはっきりしてきた田中さんは
それぞれの利点を生かしつつ、
正にこれから目が離せない作家さんです。
この絵に出会える機会がありましたらぜひ、
実物をその目でご覧ください。
その画力と田中さんだけのセンスを堪能していただきたいものです。





