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「 三宅 結子 〜 1/なん 」

Category : 現代美術シッタカぶり
2014.5.13〜5.18【 KUNST ARZT 】

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「階段を上がりながら見えてくる並べられた女性の靴を見て
途中で帰ってしまう人もいます…」
その手で作られたものを作品としか認めない人には確かに奇異に映りますが、
ギャラリストの「こういう表現方法がもっと普通に出て来る
環境というものもとても大事です。
四角い枠に描かれたものだけが美術ではないし、
問題は表現されたモノやコトから何を見るか、
どう感じるかということではないでしょうか」という意見には激しく賛同します。

作者の三宅さんは介護士という仕事を通じ、
アートという手立てを踏んだ上で人の生き死について
淡々としかし粛々と問いかけています。
この目線の奥には歴然としたリアルさが記録されています。
会場のありふれた日常品たちは
特別養護老人ホームでの部屋の再現として使われています。
終の住処となる部屋に運ばれるモノたちは実にチープで
思い入れなどという改まった感情とは次元が異なるがごとくに
ただそこに「在る」のです。
ここで亡くなるまで(とはいっても看取り介護という特殊な例を除いては
ほとんどの方が病院で亡くなるのですが…)生活するにしては
なんとあっけらかんとした部屋の佇まい。
洗面用品も衣服もタンスも、そこに本人との関わりを見つける要素は
見当たりません。
本当に、そう、そんなものなのです。
ここにあるものは三宅さん自身だったらどうだろうかと
“想定”しうる限りで集めた舞台の小道具たちなのです。
生と死をテーマにするということは
生と死を言葉の綾や単なるイメージで捉えて具象化(美的に)することではなく
体感温度として認識し、そして時間をかけて検証するのではなく宿命としての
緩やかな死への過程を冷静に見つめるということなのです。
しかも身内の死や遠い事故で亡くなったというのでもない、
例えるのなら半分の半分の半分はいつまでもゼロにはならないという感覚と
「人は生まれながらの死刑囚」(それにしても極端!)と言ったパスカルの言葉とが
ミクスチャーされた、いわば“身近でありながら赤の他人の死”を
目の当たりにする経験がモノを言う(変な言い方で申し訳ないのですが)のです。
死への客観性は年齢と比例してリアルな色合いを帯びてまいります。
僕などはもうすぐ還暦を迎えるということで
人生のトワイライトな気分を満喫!して淡々と
周囲を眺めながら、悠々として、生きていけるほどに人間として
成熟していません。
現在は大胆な転職と言われて3年、介護職として
宮使いの身ではありますから、
同じ職業を選んだという点では三宅さんにもこの展示にも
大いなるシンパシーをもって心象的にも接しています。

丁度今読んでいるのが「死を忘れた日本人」という本ですので
タイミングとして、いつも脳裏にあった「死に支え」について
深く考えさせられることがありました。
「緩やかな死への旅(時間)と支度としての調度品」は
本人の生活を形作る要素としての日用品そのものの意味性を問うものとシッタカぶります。
形見であるとか、特別な所以があるわけでもない
「何のまつわりも感じ得ない」希薄さと実用性のみに特化したその向こうに
見え隠れする部分…うまく言えないのですが、そんなものを感じました。

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