「 中道 由貴子 展 」
Category : 現代美術シッタカぶり
2014.9.2〜9.7【 ギャラリーモーニング 】
かなり前ですが、飛蚊症か?という症状が時も場所も構わずに出て来て
眼科で診てもらったところ、ひとこと「エイジングです」と言われて
思わず「そんだけかい!」とつっこみそうになったことがあります。
飛蚊症はともかく、60年くらい生きてると
いやな事象に出会うことも多々ありますし、だんだん目も濁ってまいります。
いつ雨が降るかというような日が続く晩夏に
なんだか洗礼を受けたような気持ちになる絵に出会いました。
だからギャラリー巡りはやめられないんですな。
目が洗われました…
向かいの車道をペダルをこぎながら(先に2つ見る予定があったもので)
ガラス越しに見えた作品は、帰りに実物に出会える楽しみをこしらえてくれました。
目が洗われるというのか、徐々に浄化されていくというか、
先の「洗礼」というのは決して大げさではなく、僕の中で
見えない啓示が静かに降りたようななんとも清々しい気持ちを体験しました。
うら若き(それにしても!なんとも古臭い表現)作家さんは
この絵のとおりの女性でしたね。
この年代の女性(女子といいましょうか)の作品に
垣間みられる「poison」というドアは、それはそれで
身の置き所、つまりスタンスを表す一つのキーワードでもあり、
創意の鍵穴でもあるんですが、
最近、中道さんのような絵に出会うことは、むしろ稀になってきました。
まぁ、僕だけかも知れないし、多分そうなんでしょうが…
色をあてたオーガンジーが何百枚も重なっているような感じ。
そしてその奥から一抹の光が届きます。
これだけの色数、パーツが一画面にあって、
見た人にストレスを与えない絵というのが、今時は珍しいと言えます。
むしろ些少なストレスこそが
作品の売りであるかのようなものも思いのほか、ある中で…。
揺らいでいるんですね、絵が。
勿論、錯視ではなくて揺らめく、というのかな、
目の中で泳ぐというか…
常に光合成を行っている…
澱みなくクリアなんですね、画面が。
うーん、有り得ない光景であるようで、
僕たちの知らない自然界には当たり前にあるような…。
中々うまく言えませんね。
かなり制作時間もかかり、またこの作風になってからも
相応に長いということの証みたいなものが表れているんですね、画面に。
これこそが多くの要素があるように見えながら
作者が思い表したいとすることに一貫性があることの査証でもあるかなと感じました。
色彩のレイヤーがきちんと根拠をもってそこに漂うという感じです。
久しぶりに絵を見て救われる気持ちになったのは確かです。
絵を描くというのは、何の発露なんでしょう。
それは描けない人、描こうと思わない人には、単なる動機にしか映りません。
いわば本人のみぞ知る世界です。
しかし、描いたものが人の心をわずかでも揺らすことができるとしたら
幾万の言葉よりももっと早く、直感的に届くのです。
もっと近く、もっと強く…
僕は当然、描けませんので、それを探す小さな旅に
こうして出向くわけです。









かなり前ですが、飛蚊症か?という症状が時も場所も構わずに出て来て
眼科で診てもらったところ、ひとこと「エイジングです」と言われて
思わず「そんだけかい!」とつっこみそうになったことがあります。
飛蚊症はともかく、60年くらい生きてると
いやな事象に出会うことも多々ありますし、だんだん目も濁ってまいります。
いつ雨が降るかというような日が続く晩夏に
なんだか洗礼を受けたような気持ちになる絵に出会いました。
だからギャラリー巡りはやめられないんですな。
目が洗われました…
向かいの車道をペダルをこぎながら(先に2つ見る予定があったもので)
ガラス越しに見えた作品は、帰りに実物に出会える楽しみをこしらえてくれました。
目が洗われるというのか、徐々に浄化されていくというか、
先の「洗礼」というのは決して大げさではなく、僕の中で
見えない啓示が静かに降りたようななんとも清々しい気持ちを体験しました。
うら若き(それにしても!なんとも古臭い表現)作家さんは
この絵のとおりの女性でしたね。
この年代の女性(女子といいましょうか)の作品に
垣間みられる「poison」というドアは、それはそれで
身の置き所、つまりスタンスを表す一つのキーワードでもあり、
創意の鍵穴でもあるんですが、
最近、中道さんのような絵に出会うことは、むしろ稀になってきました。
まぁ、僕だけかも知れないし、多分そうなんでしょうが…
色をあてたオーガンジーが何百枚も重なっているような感じ。
そしてその奥から一抹の光が届きます。
これだけの色数、パーツが一画面にあって、
見た人にストレスを与えない絵というのが、今時は珍しいと言えます。
むしろ些少なストレスこそが
作品の売りであるかのようなものも思いのほか、ある中で…。
揺らいでいるんですね、絵が。
勿論、錯視ではなくて揺らめく、というのかな、
目の中で泳ぐというか…
常に光合成を行っている…
澱みなくクリアなんですね、画面が。
うーん、有り得ない光景であるようで、
僕たちの知らない自然界には当たり前にあるような…。
中々うまく言えませんね。
かなり制作時間もかかり、またこの作風になってからも
相応に長いということの証みたいなものが表れているんですね、画面に。
これこそが多くの要素があるように見えながら
作者が思い表したいとすることに一貫性があることの査証でもあるかなと感じました。
色彩のレイヤーがきちんと根拠をもってそこに漂うという感じです。
久しぶりに絵を見て救われる気持ちになったのは確かです。
絵を描くというのは、何の発露なんでしょう。
それは描けない人、描こうと思わない人には、単なる動機にしか映りません。
いわば本人のみぞ知る世界です。
しかし、描いたものが人の心をわずかでも揺らすことができるとしたら
幾万の言葉よりももっと早く、直感的に届くのです。
もっと近く、もっと強く…
僕は当然、描けませんので、それを探す小さな旅に
こうして出向くわけです。








