「 金 サジ 個展 〜 S T O R Y 」
Category : 現代美術シッタカぶり
2015.06.15〜06.21【 ART SPACE NIJI 】
民族的、という概念。
日本人が外国へ行けば「外国人」ですが、
果たして日本人であるという「存在意識」の
芸術表現としての作品への反映度は
どの程度のものなのかな、などと考えます。
日本人である前に一個の表現者であるべきという見方も
当然あると思います。
アジアならずとも、日本人の存在が、
歴史をさかのぼれば「加害」と「侵略」という
決してあがなうことのできない事実の上に
「今だ」にあることも、
同時に世界で唯一の被爆国であるという
これまた将来的に同じような目に遭う国が
中々に想像しにくい、そんな「経験」を持つ国でもあります。
韓国人作家、あるいは韓国からの留学生の作品を見る機会は
それほど多くはないのですが、時間があれば行くようにしています。
それは欧米の作家が歴史“的”認識を作品に反映させる、
いわゆるグローバルな提示という視点とはやや異なる、
自身の「所在」を突き詰めた作品が多いからかもしれません。
そこに僕などは芸術表現の意義、あるいは意気を言ってもいい、
意思表明を感じ取ります。
しかもそれは突きつめても、突きつめても
一個人としての「等身大」を越えることはできない悩ましさを伴います。
日本の歴史線上にある、侵略と被爆というキーワードを
勿論同一に並べることはできませんが
同じ民族が別々の国家として対峙している朝鮮半島は
現在では唯一の分断国家です。
もちろん成り行きには各国の思惑や当事者の事情があったにせよ、
これは日本人には想像の域を越えた独特の感覚と思えます。
以前に見た韓国をルーツにもつ学生の作品に
全く母国語が話せない自分=コミュニケーションのギャップと
それ以上に韓国人としての認識が薄い現状、
確かステートメントの中で
「多分感覚的には日本人だと思う」という自分にとって
祖国とは何かを問う旅に出る、という
いわゆるロードムービー的な映像作品を見て
当然のことながら自分に置き換えることなどできないんだ、と
強く、またどこまでも客観としてしか
受けとめられない自分を再確認しました。
金サジさんは韓国という国家が負った悲劇の歴史、
それは言うまでもなく戦争という
個人の意志などを無視した国家の横暴(=無謀)な
意思決定のもとに成された結果の中で
自分の「ご先祖様」が故郷を通じて強い同胞という意識の中でこそ
繋がりを維持できたことと、
その子孫である金さんの(これはあくまで僕の感じ方ですが)
どこか「置き去りにされた感覚」が
HPの中の「個展を終えて」の一文から伺えるのです。
つまり先ほどの所在の確認は
「故郷が分からないとまどい」から始まるわけです。
さて、まず、金さんの個展のDMのデザインがとても良かったこと。
金さんは多くのグラフィックデザインもされているようです。
そのどれもに独特なセンスが感じられます。
ダンスパフォーマンスなどのフライヤーも秀逸な出来映えです。
先の金さんのHPの中に「さみしい」という言葉が何度も出てきます。
金さんの「不穏で危うい所在の在処」が生んだものは
さみしさをまぎらわす創造活動でした。
さみしさが創造の発露となって、作品は生まれました。
作品はどれも強烈な印象を与えます。
最初に感じたものは個展のタイトルそのものでした。
そこにあるのは金さんがさみしさを忘れるために
妄想し空想をふくらませた金さんだけの「おはなし」です。
だから、ある意味でとても個人的な作品です。
その見解は見る人がその人なりに作り上げていいと思います。
それこそが金さんの言う「たのしさの共有」だと思います。
金さんはまた韓国の伝統舞踊もされています。
これもまた故郷を思い知ることが叶わない
金さんの所在証明のようなものなのかも知れません。
それにしても多才な方です。
写真は背景が全て黒く
見た事が無い雰囲気を作り上げています。
僕は写真については(いや、ついても)不勉強で
この「フレスコジクレー」という
漆喰をシート状に加工したものについては全く知りませんでした。
東京で何度もダメ出しをしながら調整されたという作品の
迫力と奥行き、立体感は現物を見た人なら
驚愕することでしょう。
その設定、しつらえも丁寧に時間をかけたようで
全てが作品に反映されています。
写真の持つ可能性、これはカメラというハードを越えた
印刷シートという媒体の可能性をも示唆します。
そして(何度も言う)自身の所在の確認の手引きとして
テクニカルな部分を含めた写真家としての
金さんそのものと強く感じました。





金サジさんのHPです。
↓
http://kimsajik.com/?p=1175
民族的、という概念。
日本人が外国へ行けば「外国人」ですが、
果たして日本人であるという「存在意識」の
芸術表現としての作品への反映度は
どの程度のものなのかな、などと考えます。
日本人である前に一個の表現者であるべきという見方も
当然あると思います。
アジアならずとも、日本人の存在が、
歴史をさかのぼれば「加害」と「侵略」という
決してあがなうことのできない事実の上に
「今だ」にあることも、
同時に世界で唯一の被爆国であるという
これまた将来的に同じような目に遭う国が
中々に想像しにくい、そんな「経験」を持つ国でもあります。
韓国人作家、あるいは韓国からの留学生の作品を見る機会は
それほど多くはないのですが、時間があれば行くようにしています。
それは欧米の作家が歴史“的”認識を作品に反映させる、
いわゆるグローバルな提示という視点とはやや異なる、
自身の「所在」を突き詰めた作品が多いからかもしれません。
そこに僕などは芸術表現の意義、あるいは意気を言ってもいい、
意思表明を感じ取ります。
しかもそれは突きつめても、突きつめても
一個人としての「等身大」を越えることはできない悩ましさを伴います。
日本の歴史線上にある、侵略と被爆というキーワードを
勿論同一に並べることはできませんが
同じ民族が別々の国家として対峙している朝鮮半島は
現在では唯一の分断国家です。
もちろん成り行きには各国の思惑や当事者の事情があったにせよ、
これは日本人には想像の域を越えた独特の感覚と思えます。
以前に見た韓国をルーツにもつ学生の作品に
全く母国語が話せない自分=コミュニケーションのギャップと
それ以上に韓国人としての認識が薄い現状、
確かステートメントの中で
「多分感覚的には日本人だと思う」という自分にとって
祖国とは何かを問う旅に出る、という
いわゆるロードムービー的な映像作品を見て
当然のことながら自分に置き換えることなどできないんだ、と
強く、またどこまでも客観としてしか
受けとめられない自分を再確認しました。
金サジさんは韓国という国家が負った悲劇の歴史、
それは言うまでもなく戦争という
個人の意志などを無視した国家の横暴(=無謀)な
意思決定のもとに成された結果の中で
自分の「ご先祖様」が故郷を通じて強い同胞という意識の中でこそ
繋がりを維持できたことと、
その子孫である金さんの(これはあくまで僕の感じ方ですが)
どこか「置き去りにされた感覚」が
HPの中の「個展を終えて」の一文から伺えるのです。
つまり先ほどの所在の確認は
「故郷が分からないとまどい」から始まるわけです。
さて、まず、金さんの個展のDMのデザインがとても良かったこと。
金さんは多くのグラフィックデザインもされているようです。
そのどれもに独特なセンスが感じられます。
ダンスパフォーマンスなどのフライヤーも秀逸な出来映えです。
先の金さんのHPの中に「さみしい」という言葉が何度も出てきます。
金さんの「不穏で危うい所在の在処」が生んだものは
さみしさをまぎらわす創造活動でした。
さみしさが創造の発露となって、作品は生まれました。
作品はどれも強烈な印象を与えます。
最初に感じたものは個展のタイトルそのものでした。
そこにあるのは金さんがさみしさを忘れるために
妄想し空想をふくらませた金さんだけの「おはなし」です。
だから、ある意味でとても個人的な作品です。
その見解は見る人がその人なりに作り上げていいと思います。
それこそが金さんの言う「たのしさの共有」だと思います。
金さんはまた韓国の伝統舞踊もされています。
これもまた故郷を思い知ることが叶わない
金さんの所在証明のようなものなのかも知れません。
それにしても多才な方です。
写真は背景が全て黒く
見た事が無い雰囲気を作り上げています。
僕は写真については(いや、ついても)不勉強で
この「フレスコジクレー」という
漆喰をシート状に加工したものについては全く知りませんでした。
東京で何度もダメ出しをしながら調整されたという作品の
迫力と奥行き、立体感は現物を見た人なら
驚愕することでしょう。
その設定、しつらえも丁寧に時間をかけたようで
全てが作品に反映されています。
写真の持つ可能性、これはカメラというハードを越えた
印刷シートという媒体の可能性をも示唆します。
そして(何度も言う)自身の所在の確認の手引きとして
テクニカルな部分を含めた写真家としての
金さんそのものと強く感じました。





金サジさんのHPです。
↓
http://kimsajik.com/?p=1175